あなたとすごす朝



「──あっ、ああぁ〜〜〜!」
 どうしてこう、この人のリアクションはいちいち情けないのだろうか。
 突如上がった佐倉の声に呆れた顔をしながら、小森は袋から取り出した食パンを二枚、オーブントースターへ放り込んだ。
 きっと語尾が悪いのだ。せめて「あぁー!」と真っ直ぐに伸びれば少しはマシに聞こえるだろうに、捩れて曲がったみたいな音を出すからそんな風に聞こえてしまうのだ。
 自宅で使っているものとはメーカーもデザインも全く異なるそれを手慣れた動作でタイマーセットし、ようやく小森は佐倉のいる洗面所へ向かって声をかけた。
「佐倉さーん、どうかした?」
「だっ大丈夫だ! 何でもない!」
 すぐに返ってきた声は相変わらず語尾がへなへなで、どう聞いても大丈夫とは思えない。まあ、佐倉は常時がそんな調子なので今更といえば今更だ。ここがクラブハウスであったなら、お互いの体裁のために無視している場面だろう。
 だが今は違う。ここは勝手知ったる佐倉の家なのだから。
 佐倉の様子を見に行く前に、小森はまずコンロにかけていた鍋の火を消した。鍋の中では夕飯の残り物のポトフが、くつくつと音を立てて煮えている。一晩ですっかり角が取れてくたくたになった野菜はきっと、口に入れただけで溶けてしまうのだろう。漂うコンソメの匂いに思わず昨夜の食卓を思い出して、そわそわと落ち着かなくなりそうになるものがこみ上げてくる。それを抑えながら小森はキッチンスペースを後にした。
「ま、待てっ! 大丈夫だから来るなっ! 見るなっ!」
 単身者向けのそう広くもない物件であるが、小森がたどり着くよりも先に足音で察したのだろう佐倉が声を上げた。
 やけに必死だな、と小森は小さく鼻で笑った。それに誤魔化すのが下手クソすぎる。これじゃあ「見に来てください」と言っているようなものだ。最初は脚の多い虫でも出たのかと思っていたが、どうやら想像していたよりも面白そうなことが起きているらしい。
「佐倉さん、どうしたんスか?」
「ひっ──!」
 開け放しになっていたドアから中を覗き込んだ途端、くぐもった声で短く叫んだ佐倉と視線が合った。
「くっ来るんじゃないって言ったじゃないか……」
 目を泳がせながらもごもごと佐倉が喋る。しかし何故かその口元、というより顔の下半分を不自然にフェイスタオルで押さえつけたまま離そうとする様子が無い。疑問に思った小森が洗面台を見やるとそこには湯が溜められており、傍にはシェービングクリームの缶とT字の剃刀が置いてあった。剃刀にいたっては刃に白い泡が残っていて、明らかに髭を剃っている途中だということが窺えた。
「もしかして切ったんですか?」
 さすがに流血沙汰は小さくとも笑えない。茶化す気はないと暗にトーンで伝えるが、佐倉はふるふるとタオルで押さえた顔を横に振った。
「本当に?」
 いまいち信用出来なくて念を押すが、佐倉はやはり首を縦に振って答えた。
「心配しなくても大丈夫だから……」
 あっちに行け、と。
 濁した言葉の先を読んで、小森は不機嫌そうに眉根を寄せた。この様子だと本当に大したことではないのだろうが、それにしたって理由もわからず邪険にされるのが気にくわない。
「何やらかしたんだか知らないけどさ。俺に話すの、そんなに嫌?」
 言いながら、すぐ横の壁にもたれ掛かって腕を組む。小森の態度とやや棘のある言葉に、佐倉は「そういう訳じゃない……」とタオル越しに歯切れ悪くもごもご呟いた。
「だってお前、聞いたら絶対笑うだろ?」
「笑わないよ」
 たぶんね、と心の中で付け足しておく。この鈍臭い男のやらかすことで、笑える話じゃない方が稀なのだ。
「あーあー嫌だなー。ミーティングや指示出しの時はいっつも『私を信じろ』とか言うくせに、こっちは全然信じて貰えないんだからさー。こんなんで本当に俺たち恋人なんですかねー?」
 びくり、と佐倉の肩が一瞬跳ね上がるのを小森は見逃さなかった。
 自分でも狡い言い方だと思う。こうまでして暴くような隠し事じゃないともわかっている。けれども言ってしまったものは仕方がない。口が悪いのは生まれつきだ。
「……手が滑って、」
「うん」
 そんな卑怯な言葉にも律儀に罪悪感を覚えて口を開いてしまうのだから、本当にこの人は優しすぎる。やっぱりちょっと言い過ぎた。せめてどんなに下らなくても今回は笑わないでやろう。そう思いながら小森は佐倉の話を促した。
「その、髭をだな、間違って、半分──」
 あ、だめだ。
 気づいた時にはもうとっくに吹き出した後で。タオルに隠れていない目元まで顔を真っ赤にした佐倉がこちらを睨みつけていた。
「ほら笑った! やっぱりお前はそういう奴なんだ!」
「ごめんって佐倉さん。マジで笑うつもりなかったんだよ」
 そう謝ってはみるものの、吹き出した余韻で端々に笑いが混じってしまう。もちろんそんな態度で佐倉の機嫌が直るはずも無く、「もういいだろう。あっちに行ってなさい」と子どもみたいにぷいと顔を背けられてしまった。
「どうすんのそれ?」
「全部剃るしかないだろ。あーあ、嫌だなあ。生え揃うまで時間がかかる……」
 あんな無精髭で? と言いたくなったところを今度こそ我慢する。
「それで、お前はいつまでここに居る気なんだ?」
 あっちに行けと言っただろう。そう言いたげな佐倉の目がじとりとこちらを睨む。
「え、タオルの下見せて貰えないんスか?」
「見せたくないから隠してるんだ!」
「なーんだ、残念」
 見せて貰えたとして、それはそれで腹筋崩壊モノであることは間違いない。ちょうど背後からオーブントースターのベルが聞こえたのもあり、小森は素直に洗面所を後にした。

 佐倉が戻ってくるまで時間がかかりそうだ。そう判断した小森は焼きあがった二枚のトーストを皿に載せると、新たに食パンを一枚、トースターに放り込みタイマーを捻った。元々は佐倉の身支度が終わるのを待つつもりであったのだが、このまま冷めさせてしまうのも勿体ないので先に食べ始めていることにした。
 二人で分けようと焼いたトーストは二枚とも貰ってしまおう。どうせ後でもう一枚焼く予定だったのだから。それらに手早くマーガリンを塗り終えると、小森はシンク脇の水切りかごから昨夜洗ったカップとスープボウルを二人分取り出した。次に冷蔵庫から牛乳を出し、日付が十分であることを確認してから(時折クラブハウスに泊まり込むことのある佐倉は、牛乳に限らず食べ物の期限を切らすことがままあった)カップへ注ぐ。そして最後にコンロの鍋から、ちょうど食べ頃の熱さになったであろうポトフをよそい、それらをリビングスペースのローテーブルへと運んだ。
「いただきます」
 テーブルとセットの二人掛けソファーに座った小森は、早速トーストに噛りついた。予想した通り、準備を終えるまでに佐倉は戻って来なかった。ずいぶんとヘコんでいた様子だったし、なかなか手が動かせていないのかもしれない。熱が通って固くなったパンの耳を咀嚼しながら、ぼんやりと考える。
 手が滑ったと言っていたが、そもそもの原因に察しはついていた。今朝、小森よりも遅くベッドから起きて来た佐倉は明らかに寝不足で、眠気を残して覚束ない様子のまま洗面所に行くのを見送ったのだ。
 若くないんだから、あのまま寝ちゃえば良かったのに。
 昨日の夜──夕飯を食べて。後片づけをして。風呂に入って。セックスをして。そう、その後だ。若くもないし、もともと体力も無いからと一回しかさせてくれないくせに、「やっぱり今日中に見ておきたくなった」なんて言って録画した海外リーグの試合を見始めて、結局寝落ちしていたのだ。完全に佐倉の自業自得である。
 そう呆れながら、スプーンですくったポトフを口に運ぶ。ジャガイモ、にんじん、スイートコーンに角切りのベーコン。キャベツの代わりにセロリを入れると言われた時は猛抗議したけれど、意外にこれはこれで悪くない。すっかりトロトロになった野菜はほとんど噛む必要なく、舌の上でほどけていった。
 ふと、こちらに近づく足音に気がついて顔を向けると、未だ往生際悪くタオルで口元を押さえつけたままの佐倉が立っていた。
「剃ったの?」
「……剃った」
「じゃあ見せてよ。往生際悪すぎ」
「……だって笑うだろう?」
「どうせ明日練習行ったら全員に笑われるんだから、今更でしょ」
 ほら、とソファーの空いた半分を叩いて座るように促すと、佐倉はおずおずと小森の隣へ腰を下ろした。
「ね、佐倉さん。ちゃんと見せて」
 そう言ってタオルを押さえつけている両手に手をかける。一瞬だけ強張らせたものの、小森のされるがままに佐倉はその両手をゆっくりと下ろした。
 無くなった髭よりも先に目に飛び込んできたのは、頬をすっかり染めた朱だった。夜でさえここまで恥じらうだろうかというくらいの表情に、思わず妙な気が起きそうになるのをいやいやと押し留め、改めてその顔全体を眺め見る。
 三十半ばを超えているというのに、髭のひとつでずいぶんと幼い印象を受ける。佐倉さん、意外と童顔だったんだなあ。好きな人の知らなかった一面につい、まじまじ眺めてしまうと佐倉は堪らない様子で視線を横に逸らした。
 さっきの洗面所での様子といい、かなり気にしているようだ。きっと髭を伸ばしている理由も、周囲から舐められないようにということなのだろう。まあ、結局髭があろうと他の要因で舐められてしまっているのだが。ささやかな努力というか、抵抗というか。この人はサッカー以外のことに関してはどこか、考えが足りていない。
「いいんじゃないっすか」
 悪意も揶揄もない素直な笑みを浮かべて小森は呟くと、乳液で滑らかになっているそこを親指の腹でひと撫でしてやった。
「もう何年も剃ってなかったから、どうにも落ち着かなくて……」
 そう言ってやはり目を合わせようとしない佐倉の顎をすくい取り、小森は自身の顔をぐいと近付けた。弾けたように佐倉の黒目がこちらを向いたその瞬間を狙って、唇を触れ合わせる。
「っ……!」
 指先に触れる肌は滑らかなのに、そこは何もケアしていないのか少し乾燥していた。やわとひと食みして、軽く吸い付くとすぐに小森は佐倉を解放してやった。別に朝からどうこうしたいという気は無く、ただ、誰かに今の佐倉を見られるよりも前にキスがしたかった。
「やっぱりいいよ、それ。キスしても痛くないし」
 不意を突かれ、真っ赤な顔で呆然としている佐倉に向かって小森はニヤリと笑いかけた。
 と同時に、キッチンスペースの方からオーブントースターのタイマーが軽快な音を立て鳴らす。
「佐倉さん、食パン焼けたよ」
「えっ! あっ、ああ、そうだな」
 何やら覚束ない足取りでキッチンスペースへ歩いて行く佐倉の背中に、思わず笑ってしまいそうになるのを噛み殺しながら、小森はトーストの端へ齧りついた。


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